何の手がかりもない仕様書作成――途方に暮れる日々
ここでいよいよ、課長から命じられた「財務会計システムの仕様書の作成」に本格的に取り掛かることになりました。
しかし、最初から大きな壁にぶつかりました。仕様書を作るための前提知識や資料がほとんど与えられていなかったのです。
このシステムは長年使われてきたもので、過去に作成されたマニュアルすら渡されず、「まず現状を把握しろ」と言われるだけでした。
周囲に尋ねたところ、財務会計システムの仕組みを詳しく把握している職員はほとんどいませんでした。
唯一、直属の上司だけは多少相談に乗ってくれましたが、それでもシステムの全貌を把握できるわけではありません。
「何を、どこまで、どのように作ればいいのか」
その根本的な部分がわからないまま、ただ時間だけが過ぎていきました。
毎日出勤はするものの、誰に何を相談すればいいのかも分からず、仕様書を作成するための手がかりすら見つからない。
そんな手探りの日々が続きました。
仕事のない日々と心の崩壊――ストレスがもたらした円形脱毛症
職場では、以前から担当していた「月に1回のルーチンワーク」だけは変わらず行っていました。
しかし、それ以外にはまともな仕事がなく、時間を持て余すことが増えていきました。
当初は「今は仕様書作成の準備期間なのだろう」と自分を納得させようとしていましたが、状況は一向に改善せず、だんだんと「自分は何をしているのだろう?」という虚無感に襲われるようになりました。
何の手応えもなく、ただ毎日出勤するだけの日々。
「このままではいけない」とは思うものの、どうすればいいのか分からず、次第にうつの症状が悪化していきました。
もちろん、抗うつ薬や眠剤は飲み続けていました。
しかし、心の休まる瞬間は一切なく、職場に行くだけで精神的に疲弊するようになっていました。
加えて、公務員の休職制度では、「同じ傷病で復職してから1年が経つまでは、再び休職することができない」というルールがありました。
そのため、体調が悪化しても休むことは許されず、ただただ「逃げ場がない」というプレッシャーだけが増していきました。
そんなある日、妻が私の頭を見て驚いた表情で言いました。
「ねぇ、円形脱毛症になってるよ!」
「えぇ、ただのつむじじゃないの?」と私は軽く受け流そうとしましたが、妻は納得せず、次の精神科の診察の際に私の頭のことを先生に相談しました。
すると、医師は軽く頭を見て、
「あぁ、確かにハゲちゃってるね。ストレスが原因だろうね。塗り薬を出すからしばらく使ってみて。」
と、あっさりとした口調で答えました。
こうして円形脱毛症の塗り薬を処方されたのですが、「本当にこんな薬で髪が生えてくるのか?」と半信半疑でした。
それでも、妻が毎日欠かさず薬を塗ってくれたおかげで、しばらくすると毛が生えてきました。
今思えば、当時のストレスがいかに強かったかを物語るエピソードです。
ちなみに、この時の薬が一体何だったのか、今でもはっきりとは分かりません。
AGA治療薬のようなものが一般的になる前の時代でしたし、円形脱毛症の薬があったことすら知りませんでした。
当時は「とりあえず処方されたものを使う」という感覚でしたが、今振り返ると、何の薬だったのか少し気になります。
ハゲ発言が引き金に? 上司の態度が一変
そんな日々が続く中で、年度が替わり、また「上司との面談」が組まれました。
面談では、私の最近の体調や業務の進捗について話しました。
その中で、私は何気なくこう言ってしまいました。
「この前、円形脱毛症になって結構ハゲちゃいました。」
その瞬間、課長の表情が固まりました。
なぜなら、その課長は「頭の両サイドだけに髪が残っている、いわゆるカッパハゲ」だったからです。
私は言った直後に「しまった!」と思いましたが、時すでに遅し。
課長は明らかに不機嫌になり、そこから当たりが以前にも増して厳しくなりました。
今となっては「どうせならもっとハゲをいじってやればよかった」とすら思いますが、当時はそんなことを考える余裕はありませんでした。
仕様書作成は専門職の仕事――無理な要求だったと気づく
そんなある日、私は偶然にも、財務会計システムの仕様書を別の上司が作成していることを知りました。
その上司は「課長補佐と同等の立場の情報処理専門職」で、数十年にわたりシステムの仕事をしてきたベテランでした。
しかも、その方は「何か月もかけて仕様書を作成している」というではありませんか。
つまり、システムの専門家が数か月かけて作るような仕様書を、私のような未経験者に短期間で作れと言っていたのです。
「これは完全に無理ゲーだったんじゃないか?」
そのことを知った瞬間、「自分の能力不足が原因ではなかった」と気づき、安堵と同時に怒りを覚えました。
「こんなことを、うつ病の療養から復帰したばかりの人間にやらせようとしていたのか?」
その一方で、「この仕事は無理だ」と悟り始め、モチベーションは完全に失われていきました。
それでも、辞めるという選択肢はまだ考えられませんでした。
この頃の私は、「今の職場で何とか続けなければならない」という思いに縛られていたのです。
そうして、何の進展もないまま、私はただ「雑務のような仕事」を続けるしかありませんでした。
コメント