仕事を失い、深まる絶望
あまりにもひどい課長の対応により、退職せざるを得ない状況に追い込まれました。
退職した直後の数日は、課長に対する怒りが収まらず、感情が高ぶっていました。しかし、それと同時に仕事から解放されたことで「もう、あの職場に行かなくて済むんだ」という安堵の気持ちもありました。
しかし、気持ちが落ち着いてくるにつれ、次第に現実が押し寄せてきました。
- 仕事を失い、無職となったこと
- 当然ながら収入がなくなり、生活に困ること
- 今後、どうやって生きていけばいいのか、全く見えない将来
この不安が一気に襲いかかり、うつの症状が急激に悪化しました。
眠剤を飲んでも夜は眠れず、食事ものどを通らない。気持ちは終始落ち込んだまま。
体は鉛のように重く、ベッドから起き上がるのも大変になりました。
洗面も億劫になり、無精ひげが伸び放題。
何とか起き上がっても、何も手につかず、一日中テレビを眺めるだけ。
しかし、そのテレビの内容すら頭に入ってきません。
お風呂に入るのも重労働のように感じ、シャワーを浴びるのがやっとでした。
そんな私の姿を見て、妻は「目がうつろになっていて、何も目に映っていないようだった」と後に語っていました。
この状態は、最初にうつ病と診断されたとき以来、最もひどい状態だったそうです。
PTSDの発症――県庁の近くを通るだけで息が詰まる
精神科のクリニックには、これまで2週間に一度通院していました。
しかし、この時期は、クリニックに行くのすらつらくなっていました。
さらに、問題だったのはクリニックへ向かう途中のルートでした。
これまで通っていた道は、県庁のすぐそばを通る道だったのです。
しかし、この頃の私は、県庁の近くを通るだけで冷や汗が止まらず、息苦しくなりました。
胸がギュッと締めつけられ、動悸が激しくなる――。
おそらくPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症していたのだと思います。
とうとう一人でクリニックに行くこともできなくなり、妻に付き添ってもらうようになりました。
妻は私の状態を見て、「県庁のそばを通らずに行けるルートを探そう」と言い、少し遠回りの道を選んでクリニックまで連れて行ってくれました。
このPTSDの症状は非常に長引き、それから十数年経った今でも、県庁のそばには行けません。
以前のような強い発作はなくなりましたが、それでも県庁があるエリアに近づくと、胸の奥がズキズキと痛むような感覚に襲われます。
「鬼の形相で解雇を言い渡そうとしていた課長の顔」
これが、今でも頭から離れません。
しかし、今はもうその顔に怯えることはなくなりました。
代わりに、「あの爺ももう耄碌(もうろく)しているだろうし、早く死ねばいいのに」と思う程度にはなりました。
社会との断絶――知らない人が怖い
どれほどの期間、このような生活を送っていたのか、はっきりとは覚えていません。
しかし、この時期の私は、本当にひどい状態でした。
家事もできず、子供の面倒を見ることもできませんでした。
頭では「次の職場を探して働かなければ」「このままだと家族を路頭に迷わせることになる」と理解していました。
しかし、どうしても 心と体が言うことを聞いてくれない のです。
妻は、
「いいよ、しばらく休んでいて。あんなひどいこと言われたんだもん。傷つかないほうがおかしいよ。」
と、何度も言ってくれました。
頭では「ありがたい」と思うのですが、心からその言葉を受け入れて「休もう」とは思えませんでした。
たぶん、この頃の私は 頭の中全体が霧に包まれていた のだと思います。
- 何を考えても、ぼんやりとしている
- すべてのものに靄(もや)がかかっているような感覚
- それでいて、突然の音や知らない人に対する恐怖感だけは異常に強い
そんなある日、妻の叔母が季節の果物を持って家に来てくれました。
「ピンポーン!」
ドアのチャイムが鳴った瞬間、私は全身がビクッとなりました。
妻がとっさに、
「寝室に隠れて!」
と、小声で言いました。
その言葉に反応するように、私は まるで本能的に すぐさま寝室に駆け込みました。
その後、妻が果物を受け取って部屋に戻ってくると、笑いながら言いました。
「なんかさ、人が来たら隠れるって、悪いことしてるみたいだね。別に隠れる必要なんてないんだけどね。でも、他人と会うの嫌だもんね。」
その言葉を聞いて、私は
「そうだよな。別に悪いことをしているわけじゃないんだよな。でも……恥ずかしいことをしているのかもしれない。」
と、ぼんやり思いました。
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